江戸時代より続く酒井鍼灸院の歴史
- 初代 酒井助右ヱ門 江戸時代(安政?年)
- 長男 酒井徳太郎(安政三年生)
- 次男 酒井末松(明治七年生)ニ代目
初代は安政(何年かは記録に無い)に福島県で生まれた酒井助右エ門という記録があり、残っている家系図からすると、これがたぶん初代。助右ヱ門には三人子がおり、そのうち二人が鍼灸を引き継ぐ。一人は北海道に開拓に行った長男 徳太郎(安政三年生)であり、次男 末松(明治七年生)であった。
明治三九年 千葉県ではじめての視覚障害者就職訓練施設「清聚学院」を創設
末松は後に成田の住まいとしていた現在の千葉県成田市幸町四四六番地で、失明者教育施設を設立すべく寄付金集めを行い、成田町の支援を取り付けて明治時代に当時郷部と山口境の地にあった旅館の古屋を買い受けてこれを移築、清聚学院が創立されるのに尽力した。このとき末松は事務係りとして職務に当たり、泰作が医科・鍼術・按摩・マッサージ・普通学の主任教師として従事していた。
明治四十五年 訓育施設として清聚学院が文部大臣より認可
成田における最初の福祉施設として歴史に残るこの清聚学院は、明治三九年十月七日高津親義氏の発議により当時成田町の医師 関川博道、高川道三郎、山内平治郎氏らによって創立された。それまでは業者達による研究会のようなものだったものが、明治四十五年一月一六日訓育学園として文部大臣より認可を得、成田山の援助のもと鍼灸按摩師の資質向上を図るための教育機関として誕生した。と郷土史には記述されている。
- 昭和十三年 酒井末松が他界
- 酒井泰作(明治二十三年生)が三代目が引き継ぐ
そして昭和十三年末松が他界、徳太郎の長男である泰作(明治二十三年生)がこれを引き継ぎ、四十八年間運営にあたり、千人近い卒業生を出す。
ちなみに清聚の名の由来は、江戸中期の鍼医で、現在も使われている鍼管という鍼を無痛刺入しやすくした道具を開発し障碍者の職業訓練施設を作った杉山和一の由来の地、京都「清聚庵(せいじゅうあん)」にちなんで付けられたそうだ。
千葉県立千葉盲学校の『六十年の歩み』にも記載されている>>参考資料
泰作は同時に清聚学園と自宅がある同敷地内で研修施設でもある治療院も開いており、さらに近くの女学院(現在の成田高等学校)で女子のたしなみとして按摩を教える教員としても指導にあたっていた。
昭和二十九年 印旛郡医師会経営の成田看護学校となる
その後、清聚学園は成田山新勝寺外郭団体である成田山財団に移行される。
昭和三十一年 鍼灸を主体とした鍼灸院を開設
- 昭和三十一年 酒井泰作が他界
- 酒井弘育(昭和三年生)が四代目を引き継ぐ
その後、泰作の後を継いで成田市三里塚で開業していた長男である弘育が、看護学校と棟続きの治療院を引き継ぎ酒井鍼灸院として鍼灸専門の治療を確立する。
昭和五十二年 現在の不動ケ岡に鍼灸院を新築
- 平成十年 弘育が他界
- 酒井茂一(昭和三十年生)が五代目を引き継ぐ
富里町に新たに鍼灸院を開業し、成田と掛け持ちで仕事をしていた長男である私(現在院長の茂一)が後を引き継ぐ。この年、八街で店舗開業していた弟(酒井一志)は隣の榎戸に鍼灸院を新築(酒井鍼灸院)し、現在は隣の榎戸駅にほど近いところで開業。
五代目(私)の遍歴
実は最初は鍼灸院を継ぐかどうかは迷っていました。というのは、鍼灸の道だけ究めるというのもつまらない気がしたので。そして、自然や動植物などの生態系に興味をもち東京農業大学にて農学部農芸化学科に入ります。その際、芝居の世界(演劇部から劇団に入団)にのめり込んだりもして、学生であることを利用して他にもいろいろと遊ばせてもらっていました。
その遊びの一つが小林三剛(東京易占学校校長)先生の著書の執筆をお手伝いでありました。この本は東洋医学の原典的なもので東洋哲学を説いています。後で気づいたのですが、鍼灸の基礎を習っていたことになります。そして、いつの間にかその学校が関東鍼灸専門学校となり本を書くお手伝いの延長で試験問題を作ったりしている内に自分も試験を受け、卒業し鍼灸師になりました。
免許を取ってから教員にならないかというお誘いもありましたが、昔から父や親戚や卒業生達から(子供のころはいやいやながら)「人を観る目とか触って探る方法」というのを叩き込まれたり臨床も見ていましたので、これを生かして仕事にした方が向いているということに気がつき・・(遅い?)今に至ります。
現在は以前ドラッグストア―の店長をやっていた娘や後に登録販売者の資格をとった妻に手伝ってもらい漢方薬と鍼灸を融合して施術にあたっています。
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成田高等学校の歴史での記事 |
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(公社)全日本鍼灸学会発表 医師 松下 嘉一先生(大会長講演)